自己心理学(self psychology)
自己心理学
『自己心理学』は、”フロイト(Freud, S.)”が創始した『精神分析』の流れを汲む『心理療法』の1つになります。
”コフート(Kohut, H.)”が創始者として知られています。
自己心理学とは、『自己』の概念を中心に人の心を捉え、『精神障害』の理解や治療を行おうとする立場を指します。
コフートははじめ伝統的な精神分析の訓練を受け、『自我心理学』の立場からを治療を行っていました。
しかし、『自己愛性パーソナリティー障害』の治療を行なっていく中で、従来の理論では十分な治療効果が得られないことに気づきます。
そこで、コフートは、従来の精神分析の枠組みを超えた理論の構築が必要だと感じ、自己心理学を生み出していきます。
コフートは、自己愛性パーソナリティー障害を、自己の健全な発達が阻害された結果起こるものであると理解しました。
そのため、治療の目的は、患者の自己を健全に育むことであり、治療者の共感的な関わりがそれを可能にすると考えました。
自己心理学では、自己がどのように形成され、健全な発達を遂げていくのかについて、様々な理論が用いられ説明が試みられています。
特にコフートは、自己の構造や自己の発達について、『自己対象』といった言葉を用いて説明しようとしました。
コフートは、自己について個人の心理的宇宙の中心と捉え、分割できない一つの存在として捉えました。
そして、自己がひとつのまとまりとして存在するためには、他者の支えが必要であると考えました。
この支えとなるものが自己対象になります。
つまり、自己対象とは自己が健全に発達するために必要な他者や物事を表し、具体的には養育者や重要な他者を指します。
コフートは、自己の健全な発達には、この自己対象からの共感的な関わりや支持が重要であり、これが欠けると自己の発達に歪みが生じ、自己愛性パーソナリティ障害などの問題が発生する可能性があると考えました。
コフートが想定した自己対象には、『鏡自己対象』、『理想化自己対象』、『双子自己対象』の3つがあります。
コフートは、これらの自己対象が、どのように自己の発達に影響を与えているのかについても明らかにしようとしました。
生まれたばかりの乳幼児はまだ自分では何もできず、自己も断片的(ばらばら)で不安定な状態です。
そのため、乳幼児は自己対象に対し様々な欲求を向けていきます。
コフートはその中でも特に以下の3つの欲求(『映し返しの欲求』、『理想化の欲求』、『分身への欲求』)が満たされることが自己の形成に繋がっていくと考えました。
- 映し返しの欲求
自己対象に自分の素晴らしさや全能感を認めてほしいという欲求
- 理想化の欲求
自己対象を完全で欠点のない存在として賞賛したいという欲求
- 分身への欲求
自己対象と自分が似た(双子のような)存在であることを求める欲求
また、これらの欲求を満たす存在として、以下の3つの自己対象を想定しました。
- 鏡自己対象
鏡自己対象は、乳幼児の映し返しの欲求を満たす存在を指します。
たとえば、乳幼児が養育者から賞賛や共感を受けることで、自分が特別であるという感覚を得て、自己愛が育まれます。
この経験を通じて、自己主張や「野心」を発展させる『誇大自己』の土台が形作られていきます。- 理想化自己対象
理想化自己対象は、乳幼児の理想化の欲求を満たす存在を指します。
たとえば、乳幼児が養育者を全能で安心できる存在だと感じられることで、乳幼児は安心感や信頼感を得て、やがて「自分もこの人のようになりたい」といった目標が形成されていきます。
この経験を通じて、「理想」や価値を追求する志向である『理想化された親のイマーゴ』の土台が形作られていきます。- 双子自己対象
双子自己対象は、乳幼児の分身への欲求を満たす存在を指します。
例えば、乳幼児は、自分と似た特性を持つ相手がいることで、他者との繋がりや安心感を感じられます。
この経験を通じて、自分は他の人と同じ人間であり、同じ共同体の一員であると感じられるようになり、社会的なつながりや共感の基盤が形作られていきます。また、双子自己対象の存在により、野心(誇大自己)と理想(理想化された親のイマーゴ)の両極を結びつけるような「才能と技能」が活性化され、現実的な執行機能(目標達成のために必要な計画、判断、思考、自己管理といった能力)が育まれていきます。
このように、乳幼児は生まれてから自己対象に向けて様々な欲求を向けますが、それに対し自己対象が適切に関わることにより、乳幼児の中に少しずつ自己の土台が形作られていきます。
そして、乳幼児の自己は次のような構造を成していきます。
コフートは、人の自己の構造は、誇大自己と理想化されたイマーゴといった双極構造を成していると想定しました。
- 誇大自己
誇大自己は、鏡自己対象が、映し返しの欲求を満たしていくことで形成される自己の一部になります。
誇大自己があることにより、個人は安定した自尊感情を持つことができ、自己主張や目標を追求するための野心が芽生えます。
- 理想化された親のイマーゴ
理想化された親のイマーゴは、理想化自己対象が、乳幼児の理想化の欲求を満たすことで形成される自己の一部になります。
理想化された親のイマーゴがあることにより、個人は自らの成長に必要な基準や価値観を持つことができるようになり、理想を追求する志向が芽生えます。
このような二つの極(誇大自己と理想化された親のイマーゴ)がどちらかに突出することなく、ほどよく折り合いをつけるている状態が健全な自己の状態になります。
また、コフートは、この二つの極がほどよく折り合いをつけるためには、この両極の間に才能と技能が介在することが必要であると考えました。
つまり、野心(誇大自己)を持ち、理想(理想化された親のイマーゴ)を実現していくためには才能と技能が必要であると考えました。
このように、才能と技能は、野心と、理想を統合し、現実的な形で機能させる役割を持ちます
そのため、コフートは、この3つの要素(「野心ー才能と技能ー理想」)(『中核自己』)が適切に機能することで、自己は双極構造を成し、一つの全体性を持ったものとして健全に発達していくと考えました。
このように、断片的であった自己の要素は自己対象の働きにより、次第に融和(調和)していき、一つの統一体として機能していきます(『融和した自己』)。
しかし一方で、自己対象からの適切な関わりが得られなかった場合、自己の発達はどちらかの極、もしくは両方の極に『固着』(特定の段階で発達が停滞してしまう状態)してしまうことになり、自己愛性パーソナリティ障害などの問題へと発展していく可能性があると考えられています。
また、コフートは、精神分析的治療の中で自己愛性パーソナリティ障害の患者は特有の『転移』を形成することを発見し、『自己対象転移』と呼び理解しようとしました。
自己対象転移とは、自己対象体験が得られず、自己に欠損を抱えるに至った人に生じる転移であり、治療者を自己対象として体験することを指します。
つまり、治療者を自己の一部のように感じ、自らの欲求を向けたり、自分の思い通りの役割を治療者に求める現象を指します。
コフートは自己対象転移を『鏡転移』と『理想化転移』の二つに大別しました。
- 鏡転移
鏡転移は、治療場面において、誇大自己を再活性化しようとする患者の試みを指します。
つまり、治療者からの共感的な関わりや、賞賛を通して、自分の自尊感情や自己愛を保持しようとする試みになります。どのような人も他者からの理解や共感を求めますが、自己愛性パーソナリティー障害の患者の場合はその欲求が非常に強くあります。
その欲求(鏡転移)に対し、治療者が共感的に応答し、承認、映し返しを行っていくことで患者の活気や自尊感情は再活性化していくと考えられています。鏡転移には次のような3つが想定されています。
- 『融合転移』
- 治療者は患者の一部として体験されます。
治療者に対して完全な従属を要求します。
- 治療者は患者の一部として体験されます。
- 『分身転移(双子転移)』
- 治療者は患者によく似たものとして体験されます。
患者は外見や考え方において治療者と同じでいたいという願望を表現します。
- 治療者は患者によく似たものとして体験されます。
- 狭義の鏡転移
- 治療者は別個の存在としてはっきりと体験されます。
- 『融合転移』
- 理想化転移
理想化転移は、治療者を理想化し、それと繋がることにより心の平衡を保とうとする患者の試みを指します。
つまり、理想化した治療者から偉大さ、力強さを感じることで自己の統合を保とうする試みを指します。発達の早期において、乳幼児は自己対象に対して様々な欲求を向けますが、自己対象はこれに対して全て完璧に応えることは出来ません。
しかし、このような適度な共感や応答の失敗があることにより、乳幼児は自分自身で欲求を満たしていこうと動きはじめます。
そしてそれにより、乳幼児は自己対象の機能を内在化していき、自己の統合性を保つための機能に変容させていきます(『変容性内在化』)。しかし一方で、自己対象の共感や応答の失敗が続き、乳幼児が不快感や不安に圧倒される場合、乳幼児は自分自身で欲求を満たしていく力を育てていくことが出来なくなります。
そのため、自分の外に理想化された自己対象を求め続ける(理想化転移)ことになり、常に他者に欲求を満たしてもらうおうとするといった状態に陥りやすくなるとされています。このことから、治療場面においては、治療者から適切な共感が得られない場合に、それをいかに変容性内在化のプロセスに繋がていけるかが重要とされています。
このように自己心理学は、自己の概念を中心に、その構造や発達を明らかにし、自己愛性パーソナリティー障害の治療を行おうとしました
そして、これらは、自己や人間の心理的な成長に関する理解にも繋がり、現代の心理療法においても重要な基盤となっています。
参考・引用文献
上地雄一郎(1994)「自己愛人格障害と自己対象転移についてのKohutの概念の検討:Z氏の症例を通して」1(12), p115-130, 岡山県立大学短期大学部研究紀要
森岡正芳編 (2022) 『臨床心理学中事典』野島一彦 (監修), 遠見書房.
中野明德(2013)「H.コフートの自己愛論 : 自己心理学への展開」15, p25-34, 福島大学総合教育研究センター紀要
日本心理臨床学会編(2011)『心理臨床学事典』 丸善出版.
横川滋章・橋爪龍太郎(2015)『生い立ちと業績から学ぶ精神分析入門 22人のフロイトの後継者たち 』 乾 吉佑 (監修), 創元社.
\この記事を書いた人/
臨床心理士・公認心理師
上岡 晶
Ueoka Sho
精神科・心療内科での勤務を経て、2023年から「オンラインカウンセリングおはぎ」を開業しました。私のカウンセリングを受けてくださる方が少しでも望まれる生活を送れるように、一緒に歩んでいきたいと考えています。